ホーム創建(匠創建)の歴史①
ホーム創建の歴史をたどります
今回から何回かにわたり、匠創建の阿部社長に「来年30周年を迎えるホーム創建の歴史」についてお話を伺います。
ご存じの方も多いと思いますが、阿部社長が30年前に立ち上げた会社が「ホーム創建」です。
その後、ホーム創建の経営を続ける中で、阿部社長は「職人集団をつくること」、そして「職人が安定して、いつでも仕事ができる環境をつくること」が大切だと考えるようになり、現在の「匠創建」を立ち上げました。
では、なぜ阿部社長はホーム創建を立ち上げることになったのでしょうか。
その物語は、阿部社長が大学を卒業したところから始まります。
これから何回かのシリーズにわたり、創業に至るまでの道のり、そしてホーム創建の歩みを、阿部社長ご本人の言葉でお届けします。
なお、本文は阿部社長にお話しいただいた内容をもとに構成しています。
「卒業した」「会社に入った」などの表現は、すべて阿部社長ご本人の視点で語られているものとしてお読みください。
それでは、阿部社長の物語をお楽しみください。
住宅を変えたい。その思いが、創業につながった
ホーム創建の創業は1997年(平成9年)。来年、会社は30周年を迎えます。
その原点をたどるため、建築の世界に入った頃から、創業に至るまでの歩みを振り返ります。
「100万円欲しい」と答えた就職面接
大学は商科大学を卒業しました。
卒業後は、釧路の松並建材店という会社に就職しました。
当時、両親が阿寒町に住んでいたので、長男だった私は、いずれ家に帰らなければならないと思っていました。それで、釧路の会社を探していたんです。
松並建材店を受けたのは、建築に興味があったから……というわけではありませんでした。
求人票に「サッカー部がある」と書いてあったんですよ。ずっとサッカーをやっていたので、「それならいいな」と思って応募した。
ところが、入社してみたらサッカー部がなかった(笑)。
採用試験は、札幌にある中小企業家同友会の事務局で行われました。16人の大学生が集まって、そこで採用試験を受けたんです。
その面接で、「あなた方は給料をいくら欲しいですか」と聞かれました。
みんな「11万円くらい」「12万円くらい」と、当時の初任給を基準に答えていました。
私の番になって、「100万円欲しい」と言った。
面接官からは、「それだけ働けるということですか」と聞かれました。
「はい。労働の対価として、それ以上働けると思っています」
今思えば、ずいぶん生意気な学生ですよね(笑)。
それでも、なぜか合格しました。
建材の営業から、外断熱との出会いへ
入社して帯広営業所に配属され、建材の営業を始めました。
工務店さんや大工さんを相手に仕事をする中で、少しずつ住宅そのものに興味を持つようになっていきました。
そんな頃、アイカ工業の営業担当者と知り合いました。私と同級生だったこともあって仲良くなり、あるとき「こんなのをやってみないか」と声をかけてもらったのが、YBEX(ワイベックス)工法でした。
YBEXは、三菱油化とドイツのバーディッシェ社が日本で合弁会社をつくり、ドイツで普及していた外断熱の考え方を日本の建築に取り入れた工法です。
当時のドイツでは、石造りの建物の外側に断熱材を施工する外断熱が一般的に用いられていると聞きました。
一方、日本はオイルショックを経験し、省エネルギーが国を挙げての大きな課題になっていた時代です。
いかに灯油や原油の消費を減らすか。
そのためには、建物そのものの省エネルギー性能を高める必要がある。
ドイツで普及していた外断熱を日本の建築物に取り入れることで、建物の省エネルギー性能を高められるのではないか。そうした考え方から、日本でも外断熱工法が紹介されていました。
アイカ工業は、この外断熱工法に自社で開発した外壁の仕上げ材である「ジョリパット」を組み合わせ、YBEX工法として販売していました。
私は、その営業を担当することになりました。
当時、YBEX工法を担当していた営業は私一人でした。
建材販売の営業をする中で、外断熱という技術に触れたことが、私が断熱や省エネルギーについて本格的に考える最初のきっかけになりました。
そして、この仕事が後の住宅づくりにつながる大きな転機になっていきます。
鎌田先生との出会い
YBEX工法の営業を通じて断熱や省エネルギーへの関心が高まっていた頃、室蘭工業大学の鎌田先生の講演を聞く機会がありました。
鎌田先生は、北海道の住宅を変えなければならないという思いを持ち、断熱や気密を重視した新しい木造住宅の考え方を提唱されていました。
鎌田先生の話は、私にとって大きな刺激になりました。
それまで私は、外断熱という一つの工法を営業として扱っていました。
しかし、鎌田先生の話は、もっと根本的なものでした。
当時の在来木造住宅の建て方では、単純に断熱材を入れただけでは暖かくならない。
さらに、施工方法によっては建物の中に湿気が入り、腐ってしまうこともある。
暖かく快適で、長く住み続けられる住宅をつくるためには、断熱材を入れるだけではなく、断熱や防湿、通気層などの新しい考え方など、住宅のつくり方そのものを変えなければならない。
その考え方に触れて、私はますます住宅の性能に興味を持つようになりました。
そして、
「十勝の住宅を変えたい」
「自分たちが売っている断熱材を正しく施工してもらいたい」
と思うようになったんです。
「そんな面倒なこと、やってられない」との反応
当時は、まだ松並建材店の社員でした。
営業で工務店さんや大工さんのところへ行っては、鎌田先生の考え方を伝え、
「これからは、こういう工法で家を建てたほうがいい」
と話していました。
ところが、返ってくるのは、
「そんな面倒なこと、やってられない」
という反応がほとんどでした。
新しい工法を取り入れるには、それまでの施工方法を変えなければならない。
職人さんにも新しい技術を覚えてもらわなければならない。
当時の住宅業界にとっては、決して簡単なことではありませんでした。
それでも私は納得できませんでした。
札幌で、鎌田先生の考え方を取り入れて、先進的に住宅をつくっている工務店があると聞き、そこを訪ねました。
実際の現場を見せてもらい、施工についていろいろと教えてもらいました。
そして、その方を帯広に招き、工務店さんや大工さんを集めて講演会まで開催しました。
建材を売る営業マンとしては、ずいぶん変わったことをしていたと思います。
自分のための「特販部」をつくってもらう
こうした活動をしていましたが、会社から「そんなことをするな」と言われることはありませんでした。
当時、営業成績はそれなりに上げていましたし、YBEX工法は建材の販売にもつながります。
一つの大型工事を受注すると、半年分の建材を売るくらいの利益になることもありました。
そのため、会社としても、私がこうした活動をしていることについて、特に問題にはしていなかったのだと思います。
ただ、建材会社の仕事は、基本的には建材を販売することです。
住宅の工法を考えたり、施工方法にまで踏み込んだりするのは、工務店や建設会社の仕事。
建材屋がそこまでやると、場合によっては工務店や建設会社の仕事を邪魔することになるのではないか。そんな感覚もありました。
そこで私は、会社に直談判しました。
「自分のための部門をつくってほしい」
そうお願いして、「特販部」をつくってもらったんです。
ただし、部長になったわけではありません。
一人だけの部門で、上司もいない。
自分で考えて、自分で動く。
そんな仕事でした。
その立場で、鎌田先生が教えてくださる木造住宅の考え方を広げる一方、YBEXによる外断熱工法にも取り組みました。
釧路の日銀宿舎の改修工事や開発局の宿舎、自衛隊の宿舎などの工事などにも関わりました。
釧路、弟子屈、中標津など、帯広から職人さんを連れて泊まり込みで仕事に行くこともありました。
当時、YBEX工法についてきちんと説明し、施工までできる人間は、北海道でもまだ限られていました。
そのうちの一人が私でした。
木造住宅については鎌田先生の考え方を学びながら、鉄筋コンクリートなどの建物についてはYBEXによる外断熱に取り組む。
「断熱」という共通するテーマを軸に、さまざまな建物の性能を高めることに取り組んでいきました。
「自分で家をつくりたい」
一方で、木造住宅については、なかなか私の考えに賛同してくれる工務店さんがありませんでした。
そんな中で、取引先だった高橋さんという方がいました。
高橋さんは私より一回りくらい年上で、有限会社北誠建設という小さな会社を経営していました。
当時は、社長と3人の大工、合わせて4人ほどの会社です。
高橋社長自身も職人として現場に出ていました。
経理担当もいない。設計担当者もいない。
そんな会社でした。
その高橋さんが、私の話を一生懸命聞いてくれた。
「じゃあ、造ってみるか」
そう言ってくれたんです。
私は松並建材店にいながら、施工の指導をしたり、現場に関わったりするようになりました。
そうしているうちに、今度は自分自身が、
「もっと現場で、びっちり家づくりをやりたい」
と思うようになってきた。
そこで、高橋さんに「この会社に入れてください」とお願いして、松並建材店から移ることになりました。
ここから、本格的に住宅をつくる側に入っていったんです。
四人の会社で、何でもやった
その会社では、断熱に特化した家づくりに取り組みました。
木造住宅に外断熱を取り入れたり、コンクリートブロック住宅の外断熱に取り組んだり、鎌田先生の考え方を取り入れた新在来木造住宅をつくったり、ツーバイフォー工法の住宅を造ったり。
とにかく、断熱に特化して暖かい家づくりを模索していました。
そして会社が小さかったからこそ、いろいろな仕事を経験できました。
私は商科大学を出ていたので経理をやる。
営業担当者がいないから営業をやる。
現場監督がいないから現場監督をやる。
設計担当者がいないから、設計も覚える。
経営についても学んでいきました。
気がついたら、会社の仕事を一通りやっていました。
当時の社長は現場に出て、重機に乗ったり、材料を運んだり、手配をしたり、とにかく作業員の監督として働いていました。
そのため、メーカーさんや取引先の方が会社に来ても、実際に打ち合わせをするのは私、ということが多くなっていきました。
札幌からメーカーさんが来て、
「社長はどこにいますか?」と聞かれる。
「現場に行っています」と答える。
その人が現場いる作業員に、「社長はどなたですか?」と聞いたら
「社長は事務所にいるので事務所に行って」と言われたので戻ってきましたと言います。
よく聞いたらその作業員とは高橋社長のようでした(笑)
そして、そんな時は、私が対応する。
そういうことが日常的にありました。
そうした経験を重ねる中で、会社のさまざまな仕事を担うようになっていきました。
4人だった会社が、私が10年間いる間に16人くらいになり、売上も6~7倍くらいになったと思います。
本当に、いろいろなことを勉強させてもらいました。
今振り返ると、あの10年間の経験は、自分にとってものすごく大きな財産になっています。
そして、独立へ
その会社は、その後「株式会社ホクセイハウス」という社名に変更しました。
ホクセイハウスの高橋社長からは、「会社を継いでほしい」と言っていただいたこともあります。
ありがたい話でした。
ただ、長く一緒に仕事をする中で、会社の方向性や考え方について、少しずつ違いが出てきました。
いろいろと話し合った結果、
「やっぱり、自分で独立しよう」
と決めました。
社長にそう伝えると、
「そうか。じゃあ応援するよ」
と言ってくれました。
そうして、10年間お世話になった会社を離れることになったんです。
1997年(平成9年)2月27日。
41歳のときでした。
ここから、ホーム創建の歴史が始まります。
次回に続きます。お楽しみにお待ちください




